『ブレージングサドル』(1974年)

entomolite2007-10-21

"Blazing Saddles" 監督メル・ブルックス
いいなぁ、この風刺。
政治家の策略により黒人が西部の小さな街の保安官として送り込まれるが、最後は町の住民と黒人が結束して政治家たちを打ち倒すという物語枠組みの西部劇コメディ。悪い支配者から新任の保安官と住民が協力して町を守るという点、そして鉄道が重要な役割を持っているという点で、マイケル・カーティズ監督の『無法者の群』(1939年)を想起させる。しかし新任の保安官が黒人だというのは、西部劇というジャンルが暗黙の前提としていた人種的価値体系をひっくり返してしまうものだ。白人が優れていて有色人種は劣っているという人種的コンヴェンションを反転させ、この映画では黒人がコール・ポーター("I Get a Kick Out of You")を優雅に歌いあげることで白人の目を白黒させ、困惑した白人たちは黒人に押し付けるつもりだったミンストレルショーの歌"Camptown Races"を自分たちで歌ってしまうのだ。このようにしてメル・ブルックスは、白人たちが自作自演していた人種的擬制の仮面を暴いてしまう。


保安官が黒人だったらという潜在的可能性は、西部劇のジャンル的要請の排除されるべき可能性として、したがってその裏面として常にあったはずだ。しかしこのユダヤ人監督以前には誰もそれを具現化させることはなかった。惜しむらくは、それが実現するのはコメディというモードにおいてのみ可能だったというということだ。シリアスなモードにおいてはそれは単に歴史的にありえないことと片付けられてしまうのだろう。


この映画の黒人表象に対する風刺をみるのに、面白い場面がある。黒人保安官バート(クリーヴォン・リトル)がロックリッジの町に初めてやってきた時、新任の保安官が黒人だと知った住民たちはバートに銃をむける。この危機を乗り越えるやり方が痛烈だ。バートは自分自身に銃を向け、人質をとって逃げようとする犯罪者と人質の二役を演じて見せる。これはかつてW・E・B・デュボイスが黒人の「二重意識」と呼んだものの実演ではないか。デュボイスにおいてこの二重意識とはアメリカ人としての意識と黒人としての意識だったが、この場面においては、それが危害を加える者と被害者との二重化としてあらわれる。そしてそのように可視化されることで、バートに銃を向けている白人たちは黒人に危害を加える者としての自分の姿を鏡に反映されたようにみることになるのだ。唖然とした街の住民たちはバートがそのまま逃れるのを許してしまう。そして物語が進むにしたがってこの黒い保安官はその才知で白人たちを自分の魅力の虜とするのだ。


ブレージング・サドル [DVD]

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