自分の過去を、強制と困窮の産物として眺めることのことのできる者がいるなら、そうした者だけが過去を、あらゆる現在において最高度に、自分にとって価値あるものとなしうるだろう。というのも、ひとりの人が生きてきた過去とは、せいぜいのところ、輸送の途中で手足をすべてもぎ取られ、いまや貴重な塊でしかない美しい彫像のようなものであって、その人は自身の将来の像を、そうした塊から切り出してゆかねばならないのだから。
    ―ベンヤミン「トルソー」

catch-as-catch-can

a, adv: 《口》手段を選ばない[選んでいられない]、手当たりしだいの[に]、計画性のない、行き当たりばったりの[に]、その日暮らしの[に]
"My wife did . . . provide the more dependable contributions to our income while mine came catch-as-catch-can."

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

この筆者の人の人文系情報サイトはずいぶん前に興味深く覗かせてもらった覚えがあるが、しばらく見ないうちに(なにしろ他の人のブログを読むこと自体にながらく関心を失っていた)気がついたら本を出していた。
結論から言えば、予想以上に面白かった。特に、単に現状分析をするだけでなく、インターネット上で民主的な議論を行うために「対抗カスケード」という具体的な方策を打ち出している点が好感をもてる。もちろん筆者も強調するように、「対抗カスケード」はいつでも100%その作り手の期待するような効果を産みだすわけではない。むしろ「AかBか」というわかりやすい議論のフレーミングを少しだけずらすものとしてあくまで限定的に有効なのだ。ここでは「少しだけずらす」というのが重要で、炎上という派手な現象に隠れてしまいがちだが、生産的な議論を行うためには基礎的なソースやデータを示したり論点を整理したりという地道な作業による他ないという当たり前のことを思い出させてくれる。
インターネットとこれまでのメディアとの連続性と断絶の両面を強調する筆者の基本的立場もきわめてまっとうで納得できる。これも当たり前といえば当たり前なのだが、インターネットを論じる際にはこの当たり前のことを忘れてしまうことが案外多いように思う。
内容の目新しさという点から言えば、最初の2章は、東浩紀の言うような「規律訓練型権力」から「情報管理型権力」へのシフト等、比較的馴染みのある分析なのに対し、3章4章はあまり聞いたことがない用語が数多く紹介されていて面白く読んだ。もっともこれは私がこの分野に詳しくないからで、専門の人が読んだら物足りなく感じるのかもしれない。しかし仮にそうだとしても、今後の議論の下地になるようないくつものキーワードを紹介し丁寧に解説するという記述方法(初出のキーワードは太字になっている)は一般の啓蒙にとって大いに有意義ではないかと思う。恐らく「筆者の独自の主張がなされていない」という批判はありうるだろうが、そもそも革新的な議論などというものはそんなに簡単になしうるものではないのだ。むしろ新書という枠内で数々のキーワードを手際よく紹介し、なおかつ自分の主張も必要な限り盛り込んでいる点を評価すべきだろう。
数多くの実際にあった事例が紹介されている点もよいと思う。特に3章4章では「ジェンダーフリー」や「福島瑞穂の迷言」といった筆者自身が関わった事例が紹介されていて興味深かった。

『地獄の英雄』(1951年)

entomolite2007-12-29

"Ace in the Hole" 監督ビリー・ワイルダー
タブロイド・ジャーナリズムやメディア・サーカスを題材としながら、主人公とファム・ファタルの描写および陰影の効いた映像においてまぎれもなくフィルム・ノワールの刻印を持つ映画。その扇情的なジャーナリズムゆえにニューヨークの新聞社から追い出されニューメキシコにやってきた新聞記者チャック・テイタムをカーク・ダグラス、落盤で閉じ込められた男の浮薄な妻ロレインをジャン・スターリングが演じる。1925年にケンタッキーで実際に起こった落盤事故とそれをめぐってのメディア・サーカスが元になっており、作品中でもはっきり言及されている。ニューメキシコのからっとした風景と洞窟および室内の暗さの対比が印象的だ。




『ジャズ・シンガー』(1927年)

entomolite2007-12-28

"The Jazz Singer" 監督アラン・クロスランド
サイレントとトーキーを橋渡しするヴァイタフォンの代表的映画だが、その技術的ぎこちなさ、二つの違うシステムがむりやりひとつにまとめ上げられている点がかえって魅力的といえるかもしれない。後半あらわれるアル・ジョルソンのブラックフェイス・ミンストレルシーは映画の舞台的な前史が陽気な顔をして蘇ってくるようでなにか無気味な感じを与える。ここで言われるジャズ・シンガーとは現代において想起されるジャズのイメージとはずいぶん違うのであるが、黒人の文化を媒介として白人の文化(この映画のなかではユダヤ人という問題含みの「白人」なのだが)が成立する暴力的な瞬間がこの映画には確かに記録されている。